よく連絡を取り合う友達と、幸せってなんだろうねと話すことがありました。
彼は自営業で、いわゆる社長をしているので経済的には裕福なのですが、それほど幸福を感じていないそうです。もちろん、彼自身も経済的に恵まれていることは良いことだと自覚していますが、それでも悶々とした気持ちが晴れないのです。
結婚をしてこどもは1人いましたが、離婚して今は独り身です。
僕とは住まいがかなり離れているので、1年に1回会うか会わないかといったところです。やはり大人になると友達といっても各々、生活が忙しいですから学生の時の様に好きな時間に好きなように遊ぶということは難しいですね。他にも友達は沢山いる様なので孤立しているというわけではありません。
仕事は上手くいっているようですし、傍から見るとそこまで悪くない生活をしていると思います。空いた時間にはジムに行ったり、英会話教室などにも通っているそうです。休みの日には一人で海外旅行にも行ったと聞きました。
でも、何事にもやる気が出なくて鬱っぽくなってしまったと彼は言っていました。
経済的に裕福になると、余計な事を考えてしまうようです。忙しければ、暇で辛いなんて言ってられませんからね。
幸せとは何だろうね
彼とは高校からの友達です。
当時から「面白くない」と口癖のように言っていたので、変わらないなというのが僕の感想でした。でも、冗談っぽく言っていることが実際は本音に近いことも少なくないので、本当に何かに熱中できることが無いのかもしれませんね。
何かに没頭できるかどうか、というのは大切なポイントかもしれません。時間を忘れるほど何かに打ち込んでいるというのは、幸せの一つの形だと思います。
でも難しいのは、大人になると何かに熱中するということが無くなってしまうことです。
仕事や家事に追われて時間が無く、やりたいことを諦めてしまうからかもしれません。
僕はネットゲームが大好きでしたが、やはり大人になってからは時間が取れずに学生の頃ほどやり込めていません。次の日のことを考えると夜更かしもできませんし、家族がいるので土日に引きこもってゲームばかりしているわけにもいきません。
それに、ゲームをしはじめても、日中の疲れが溜まっているからかやる気がなかなか出ないこともあります。最近では、操作が難しいアクションゲームよりも、マイペースでストーリーを読み進めるようなまったりゲームをすることも増えてきました。
それに、ゲームに熱中してアイテムを集めたり、対戦ゲームでランキングを上げたところで何になるんだろう?なんてふとした時に思ってしまうこともあります。
こうして出来ない理由ばかりが積みあがり、純粋に楽しめなくなっている人も少なくないのではないでしょうか。
もしかしたら、理想が高すぎるのが原因のひとつかもしれません。
すべてのゲームイベントに参加して、出来る限りの時間を使って効率的に遊んでトップを目指したい、となると社会人になってしまうと難しいです。もう少し目標を下げることが必要かもしれませんね。
でも、やっぱりどうせやるなら上を目指したいと思って今うものです。
評価は幸せに繋がるのか?
誰かからの評価や、他人との比較は幸せにはならないと思います。
SNSなどでいろいろな人から「イイネ」を貰うと自己肯定感が上がる、と言われますがこれは間違っています。
自己肯定感(じここうていかん)とは、自らの在り方を積極的に評価できる感情、自らの価値や存在意義を肯定できる感情などを意味する言葉である。
「自己肯定感」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』。2023年12月1日 (金) 03:26 UTC、URL: https://ja.wikipedia.org/wiki/自己肯定感
その言葉通り、自分で自分を肯定することなので、他者からの評価は自己肯定だとはいえません。
SNSのイイネで満たされるのは承認欲求です。しかし、他者からの評価や他人との比較は、それが失われてしまえば幸福度も落ちてしまうので不安定な物となってしまいます。
イイネの数も、最初は10でも20でも付けば嬉しかったのが、それに慣れてしまうともっと欲しいと思ってしまいます。もし何らかのきっかけでバズって100とか200イイネがつくような事があると、10イイネに価値が見いだせなくなってしまいます。
僕がゲームに熱中できなくなってしまったのもこれが原因かもしれません。他の人よりも上手になりたい、トップになって目立ちたいといった承認欲求ばかりを追いかけてしまってゲーム自体を楽しめていないからです。
これは、資本主義社会の負の側面かもしれません。
こどもの頃から学校の成績で競わされ、社会に出てからは仕事の評価や給与が明確に示されて他人と比較されます。高学歴な人や、沢山稼げる人が高い評価を受けるという社会システムを、趣味であるゲームやSNSにまで持ち込んでしまって心が消耗してしまっているのです。
資本主義を否定しているわけではありません。現在の社会システムにおいては、資本主義がもっとも効率の良い制度であって、生きるために必要なお金を稼ぐための経済制度としては必要不可欠です。
しかし、同じような価値観で幸福度を測ってしまうと趣味が息抜きではなくて仕事のようになってしまいます。
根拠なき自身、幸福
自己肯定感とは根拠なき自身だと思います。
そして同様に、幸福にも根拠は不要だと思います。
普段から「幸せだなあ」なんて考えながら生きていることなんてありませんよね。幸せになるためにこれを頑張るんだ、なんて努力したことも僕はありませんが皆さんはどうなんでしょうか?
僕にとっては幸せというのは直接的に感じるというよりも、現状を客観的に見て「今の自分って幸せなんだろうな」と思う事のが多いです。
もちろん、美味しいものを食べて幸せだな、と思うような分かりやすいものもありますがそれはその瞬間だけのものです。
こどもが生まれた時も、本音でいうとそれほど感情は動きませんでした。2日間、出産に付き添ってかなり体力を消耗していたのもありますし、仕事に加えて色々な手続きなどに忙殺されてしまっていました。
完ぺきとは言えませんが子育てをして元気に育ってくれています。お金は結構かかりますし、手がかかって大変でした。時には夫婦で衝突することもありましたが、振り返ってみると幸せな日々だったんだろうなと思います。
他の子と比べてどうだ、としてしまっては幸せにはなれませんよね。
これは自分自身にも言えることだと思います。他人と評価を比較して、自分の幸福度を測る必要はありません。
動物的な本能からすると、餌になる何らかの成果物を得ることでアドレナリンが出て幸福度が上がるとも考えられます。
そして、成果物の大小は幸福度に比例しないと思います。もちろん、大物の方が良いのでしょうが、小さな成功であっても幸せを感じることは可能です。
また、幸福感はあまり長続きしないことを考えると、小さな成功を継続的に積み重ねた方が満足度は高いかもしれません。
僕は家庭菜園を趣味にしています。ミニトマトやキュウリ、オクラ、ダイコン、紫蘇、イチゴなどを育てています。また、株式を買って資産運用もしています。
どちらも、じっくり育てて実がなるのを待つという意味では似たような趣味です。
株価は毎日数万円といった大きな値動きがあり、長子の良い年は年間100万円以上の利益がでる場合もあります。もちろん利益が出れば嬉しいのですが、次第にこの金額に慣れていくと感情もあまり動かなくなっていきます。
しかも、100万円増えたといっても、スマホやパソコンの画面上の数値が動くだけなので、実感としてはあまりありません。ATMから引き出してみればもう少し違うかもしれませんが、老後まで運用し続ける予定なのでそれもできません。
一方で、家庭菜園はキュウリ一本できるだけでも大きな達成感を得られます。先日スーパーに行ったら3本100円で売っていたので笑ってしまいましたけど。でも、これは逆に言えば価格と幸福度は比例しないとも言えます。
今年はミニトマトが収穫できたのも嬉しかったです。これまで、水を上げすぎて病気になって失敗したり、台風被害で倒れてしまうなど失敗を繰り返していましたが、やっと成功することができました。これも価格にすると数百円ほどで資産運用している株価の値動きと比べると微々たるものですが、満足感はかなりありました。
家庭菜園の魅力は実際に手に取って、口にすることで実感しやすいところかもしれませんね。
また、家族と喜びを共有できるのも良いところです。春にイチゴが実った際にはこどもが喜んで食べていました。株価の値上がりを奥さんに伝えても反応が薄いですからね。
成果物だけでなく、過程を楽しむことも大切だと思います。家庭菜園でも、害虫に食べられてしまったり、うまく実らずに失敗してしまうことはよくあります。
レタスを育ててみたことがあったのですが、葉っぱはひょろひょろで上手く育ちませんでした。それからしばらく放置していると、タンポポそっくりの花が咲いて驚いたことがあります。花が落ちると、綿毛も出ました。
調べてみると、タンポポとレタスはかなり近い植物なのだそうです。タンポポも食べると美味しいらしいですよ。
僕はまだ体験していませんが、ミドルエイジクライシスという症状があるそうです。
中年の危機(ちゅうねんのきき)とは、中年期特有の心理的危機、また中高年が陥る鬱病や不安障害のことをいう。ミッドライフ・クライシス(Midlife crisis)の訳語であり、ミドルエイジ・クライシス(Middle age crisis)とも表記される。
「中年の危機」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』。2024年2月22日 (木) 08:17 UTC、URL: https://ja.wikipedia.org/wiki/中年の危機
人生の中頃になって自分を見つめなおす時に、それまでの人生が正しかったのか、これからどうすべきかと悩むようになるようです。
僕がこどもの頃、親が急にレストランを始めたいなんて話を真剣に家族会議で話し始めたことがあったのですが、もしかしたらミドルエイジクライシスだったのかもしれませんね。
人は生まれてから、子供の時は体が自然と成長していき、大人になっても勉強や仕事などで評価が上がっていくものですが、中年になると老化が始まります。これまでは成長することが当たり前だったのが、失われていく一方になってしまうので不安感は大きいのでしょう。
体力は衰えますし、回復にも時間がかかるようになります。若い世代が一人前になり、下から突き上げてくるようになれば焦ってしまうでしょう。また、社会の変化によってこれまで培ってきたノウハウがまったく通じなくなってしまうこともあります。
それまでに努力をして成し遂げてきた人、成長することで自己肯定感を満たしている人ほど反動は大きそうです。
他人との比較をしないように、過去の自分とも比べないようにした方が良いのかもしれません。
それでも僕はあまり将来に悲観していません。親は年金生活に入っていますが、楽しそうに生活しています。もちろん、外からは見えない苦労や悩みもあるのでしょう。
帰郷した際に叔父さんが、視界がだんだん狭くなってきて老化を感じると言っていました。他にもいろいろと病院にかかることが増えたそうですが、若い時は取られるばっかりで不満だった国民健康保険が高齢になってありがたみを実感すると笑っていました。
こどものころは幸せと苦労は5分5分であるべきだと思っていましたが、実際のところは苦労9割、楽しいこと1割くらいが人生です。
それでも、深刻な問題や大きな不満が無ければ、後から振り返れば幸せな日々だったと思うでしょう。
僕がこれまでの人生で一番つらかった時期は、その場の痛みよりも先行きの見えない恐怖に陥った時でした。生きていく上で一番重要なのは、希望かもしれません。
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