実家に帰った時に、弟がアメリカに留学したという話を親から聞きました。驚いたことに、パイロットを目指しているそうです。
幼い頃から英会話を習っており、英検準一級も持っているそうで、生活していく上での英語力は問題ないようです。
弟は高校を卒業した後は、大学進学せず、母親の影響でエホバの証人という宗教活動をしていました。定職には就かず、アルバイトで生計を立てていたようです。
僕はこの話を聞いた時に、弟は親元から離れて新しい生活を始めたかったのかな、と推測しました。僕自身も宗教教育を受けていて、つらい思いをした経験があります。そこから抜け出すことは容易ではありませんでした。
本人から、心の内を聞いたわけでは無いので本当のところはわかりませんが、僕も似たような過去があります。
僕にはひきこもり経験があります。
ひきこもりから立ち直る道は極めて困難であり、僕の場合は数年おきに何度もひきこもりに陥りました。回復してから十数年経ちますが、また何かのきっかけに鬱を患う可能性はゼロではないと感じています。
過去のひきこもり体験を整理することで予防になるかもしれません。また、自分だけではなく家族や身近な人が同じような状況にならないために、どうしたら良いのか考えてみます。
僕のひきこもり体験
はじめて、ひきこもりの傾向が出たのは中学2年生でした。僕は、兄が通っていた影響で、自宅からかなり離れた学区外の塾に入ることになりました。そこでは、同じ学校の友だちがおらず、僕は独りぼっちになってしまったのです。
それは転校生が経験する状況と似ていると思います。
小学1年生になったときには、自然と友達ができました。後ろにいた男の子と話すようになり、仲良くなりました。
中学校は隣の学区との合併でしたが、そこで会った新しい仲間たちとも友達になることはそれほど難しくありませんでした。同じ小学校からの友達がいたことは心強かったこともあります。
しかし、まったく新しい環境で、すでに出来上がっている人間関係の中に飛び込むという経験はそれまでになく、僕はそこで躓いてしまったのです。
それから僕は塾で新しい友達を作ることはなく、卒業までずっと独りで過ごすことになります。塾は学校と違って週に2回、それぞれ2時間ほどでしたし、授業に集中していれば大きな問題はありませんでした。
授業の合間にある休憩時間や、長期休暇の授業数が多い時は苦痛でしたが、心を無にして耐えることでやり過ごしました。今と違ってスマホもなく、目を閉じて寝たふりをしていました。
幼い頃から母親の影響でエホバの証人という宗教に連れられて、教会で何時間も説法を聞くという苦行を経験していたことも影響があったかもしれません。思い返してみると、幼少期から心の中に閉じこもる生活をしていたのです。
僕には相談できる人はいませんでした。
父親は毎日、朝誰よりも早く家を出て夜遅くまで仕事をしており顔を合わせるのは日曜日だけです。父との関係性は悪くはありませんでしたが、悩みを打ち明けるほどの信頼関係はありませんでした。宗教にどっぷりとハマっていた母親は論外です。
本来であれば、友達を作るか、それが難しければ塾を代えたいと親に相談するべきだったでしょう。しかし当時の僕は困難に立ち向かう方法を知らず、嫌なことが過ぎ去るのを待つしかありませんでした。
高校2年生で不登校に
高校生になれば楽しい生活が待っていると思っていましたが、現実はそうはありませんでした。僕はまた同じ失敗を繰り返します。
入学式の初日、僕は誰とも話をすることなく一日を過ごしてしまいました。友達を作ることに失敗したのです。
塾の時とは異なり、クラスメイトはお互いに知り合いはおらず、まったく新しいスタートでした。誰かに話しかけなければいけないと頭では理解していました。でも、その勇気がありませんでした。
どう話しかければ良いだろうか、どんな話題で切り出そうか、誰か向こうから僕に話しかけてくれないだろうか、そんな事を考えているうちに時間は過ぎていき初日は終わってしまいました。
15年生きていた中で、誰も僕に友達の作り方を教えてくれなかったのです。
なんとかしなければと焦る思いとは裏腹に、次の日も、またその次の日も行動に移すことができません。周りは次第に仲の良い子同士で輪が出来始めますが、僕は独りぼっちのままでした。
何とかしなければと焦燥感に駆られ、僕はサッカー部に入ることにしました。その結果、別のクラスではありますが1年生の友達ができました。サッカーという共通の話題が友達作りの助けになりました。
サッカー部は県内でもかなりの強豪だったこともあり、練習はかなりハードでした。授業が始まる前に朝練があり、帰りも夜遅くまで練習し、また土日も練習や試合のため応援に出かけます。
1ヶ月くらいしたある日、1500mを10本走るという特別トレーニングがありました。
小学校や中学校で部活に入っておらず、高校になってはじめての部活でしたから、僕はまったく体ができておらず走り切ることが出来ませんでした。
ここで1年生が何人か部活を辞めました。僕が一番仲良くしていた友達も、部活で疲れてしまい勉強する時間が取れないからと辞めてしまいました。
授業は中学校と比べ物にならないくらい早くなっており、僕も勉強についていけなくなっていました。1学期の中間テストは60~70点というイマイチな成績でした。
厳しい部活の練習で疲弊していき、ストレスに加えて体力が低下していた僕は体調を崩してしまいました。なかなか微熱が下がらず続き、また手の震えが治りませんでした。
いつまでも学校を休むわけにもいかず、頭が朦朧としたまま登校し、その足で退部届けを出しました。
その頃になると、クラスの中のあぶれ者同士でいつのまにかグループを作るようになっていました。僕を含めて4人いましたが、お互いにそれほど反りが合わず、昼食の時間などに形だけ一緒にいるものの会話もあまりありませんでした。
夏休みはずっと家にいましたし、学園祭などもクラスメイトとは必要最低限のコミュニケーションしかとりませんでした。最低の高校生活です。
そのまま1年が過ぎ、進級しました。2年生になるとクラス替えがあります。
1学年で15クラスほどあったので、ほとんどのクラスメイトはバラバラになりまた新たなスタートを切ります。僕は不安はありつつも再起のチャンスを逃すまいと心の準備をしていました。
しかし、2年生が始まると、周囲はなぜかすでに仲良しグループが出来上がっており、僕はまた孤立してしまいました。どうやら、部活や課外活動などで人間関係を作っている人がほとんどのようでした。
絶望した僕は学校に行かなくなりました。電車に乗った後に怖くなって、そのまま引き返してしまった日のことを今でも覚えています。一度行かなくなると、再び登校することは出来なくなりました。
ひきこもった僕を見て両親は驚いたようです。それまで、僕が悩みを抱えていたことにまったく気づいていなかったようです。
小学校や中学校でも、友達がいない子がいましたが、まさか自分がそうなるとは思ってもみませんでした。両親も自分がそういった経験が無かったのか、我が子がひきこもりになるとは想像もしていなかったのでしょう。
将来に悩み大学を中退
1~2ヶ月ほど布団にくるまって生活していました。父は無理やり引っ張り出そうとしましたが、弱り切っていた僕は抵抗する気力もなく、脱力してその場に倒れ込むだけでした。
この頃の記憶は曖昧であまり覚えていません。一度、メンタルクリニックを受診したのですが何も変わりませんでした。
高校に行かなくなった僕をなんとかしようと、両親が留学を勧めてくれました。なぜ急に留学の話がでたのか経緯はわかりませんが、母が海外好きだったからだと推測しています。
正直に言うと、その時の僕は先のことをまったく考える余裕が無く、言われるがままに承諾しました。
自分自身のやる気が無かったこともあり、英語はそれほど上手く話せませんでした。日本語ですら友達が作れなかったのですから、英語でうまくいくはずがありません。ホストファミリーとはほとんど喋らず、帰宅すると部屋にひきこもって過ごしました。
ただ、同じ留学生の友達ができました。
日本人だから、アジア人だから、という理由だけで仲良くなれました。留学という共通の状態に置かれた仲間として通じるものがあったからです。
卒業するまでの間、ほとんど日本語を喋っていたので英会話はほとんど伸びませんでした。高い費用を出してくれた親には申し訳ないですが、僕にとっては高校を卒業できたこと、そして何よりも友達が出来たことは大きな成果だったと思います。
高校卒業後は、現地の大学に進みました。
大学では、はじめから留学生に話しかければ間違いないと確信していたので、すぐに友達を作ることができました。「出身はどこ?」と切り出せば誰とでも仲良くなれます。
高校1年生の頃は隣の席の子に話しかけるだけの勇気もありませんでしたから、大きく成長していました。
しかし、僕はやがて大きな壁にぶつかって大学に行かなくなりました。
入学から半年ほど経ったところで、先生から僕のレポートに不正疑惑があると告げられました。あまりにも良く出来ているので、どこかから盗作したか手伝ってもらったのか疑っているというのです。
もちろん、不正など一切していません。
僕は高校生の頃にもこのような経験をしていました。試験の点数が年度末に集計されるのですが、それが僕の持っていた答案用紙と違っており単位が認められませんでした。訂正の連絡をいれたものの、すでに夏休みに入って帰国していたので修正できません。
留学生は年に1度必ず帰国しないといけないと法律で決まっており、集計は休みに入ってからなので実質的に訂正は不可能という仕組みになっていました。
友人がこういった理不尽な処遇を受けていたところも知っています。とても賢かったタイ人の留学生が、英語(国語)の授業で年間1位を取りました。本来なら、年度末に成績優秀者に対して表彰が行われるのですが、留学生という理由で受賞出来なかったのです。自国の生徒が国語で負けてしまうというのは受け入れられなかったのでしょう。
結局、僕の不正は無かったということで落ち着きましたが、僕の中でスイッチが切れてしまいました。
それまでは目の前の勉強に集中しており、将来のことを真剣に考えることもほとんどありませんでした。外国人が現地で定職を得るのは難しいです。旅行代理店や通訳、日本語の先生などの仕事はありそうでしたが、僕はどれも興味がありませんでした。
もともと、留学自体も僕が望んでしたわけでなく、この先も海外でやりたいことや暮らしたいという強い希望もありませんでした。
一度そう思うと、もう帰ることしか考えられなくなりました。そして帰国するまでの期間、部屋にひきこもって過ごしました。
親にはやりたいことが出来たので専門学校に行きたいとお願いしました。それまでの経緯や悩んだことは誰にも話しませんでした。
ひきこもり予防を考える
帰国してから、僕はそのまま1年ほど部屋にひきこもっていました。
外に出る気力がまったく沸いてこなかったのです。自分の中では心の整理をしていたつもりでしたが、思っていたよりも強いストレスを感じていたようです。
家族とも一切喋ることはありませんでした。食事と風呂、睡眠以外はほとんどの時間をオンラインゲームをして過ごしていました。ちょうどその頃からゲーム実況なども流行り始めたところで、その魅力にどっぷりと浸かっていったのです。
春が過ぎ、夏が暮れ、秋も終わり冬になると、僕はまた学校に通おうと決めました。このままではダメだということは理解してたのです。
誰かに強制されることなく、自分の意思で決められたその時が立ち直る第一歩だったと思います。
僕は専門学校に通うようになりました。そして、卒業後は就職し自立することができました。
立ち直ったきっかけ
僕が立ち直れたのは十分な休息を取ることができたからだと思います。
大学に行かなくなってから専門学校に入学するまで、2年ほどのひきこもり期間がありました。何かに急き立てられることもなく心を落ち着かせることができました。
オンラインゲームも一助になっていたかもしれません。ひきこもっていた間は家族との会話はありませんでしたが、ゲーム内には仲間がおり自分の居場所となりました。社会人や主婦、学生、僕と同じくひきこもりのような人もいましたが、ゲーム内では現実とは無関係に一緒に遊ぶことができ、そんな僕を受け入れてくれる世界があるというのは希望になりました。
好きなことを見つけることで、それまで目を逸していた現実の世界にも向き合おうと思えるようになりました。
周囲が圧力をかけたり強引に立ち直らそうとするのは逆効果です。鬱状態になると自暴自棄になり自分を傷つけてしまいます。
僕は、父が無理やり部屋から出そうとした際に、勢いに任せて夜中に家を飛び出したことがあります。どこか遠くに行ってしまおうと、電車に乗って見ず知らずの山奥の駅で降り一晩過ごしました。そこが何処だったのか今でもわかりません。
僕はそこまで行きませんでしたが、自ら生命を絶ってしまう人もいます。また、事件や事故に巻き込まれてしまうかもしれません。
ひきこもっていても、周りの声は届いています。優しく語りかけ、心が落ち着くまで時間をかけて見守ってあげるのが良いでしょう。いつか本人が助けを求めた時に手を差し伸べてください。
信頼関係を築く
ひきこもる前に問題を解決できれば理想です。
僕の場合は、周囲に相談できる人がおらず爆発するまで抱え込んでしまいました。そうならないためにも、悩み事を打ち明けられる信頼できる人がいれば良いのですが、残念ながら今の僕にはそんな人はいません。皆さんは困った時に頼れる人はいますか?
僕は少なくとも、我が子が困難にぶつかった時に頼ってもらえるよう、信頼関係を築くことを意識しています。
娘は僕に似たのか、慎重な性格でストレスを貯めやすいようです。自分から悩みを打ち明けてくれるかはわからないので、こどもの様子をしっかり観察し変化に気をつけています。
場合によっては、逃げることが解決策となるかもしれません。どうしてもこどもが困難を乗り越えられないのであれば、転校や休学といった方法も選択肢のひとつになります。鬱になってひきこもってしまうよりは良いです。
失敗してしまったその時は、もう世界の終わりかのように絶望しましたが、振り返ってみればそれほど深刻な問題ではありませんでした。僕は同い年の人と比べるとトータルで3年遅れて就職しましたが、今は特に問題なく生活しています。
家族のサポートがとても大切だったと実感しています。僕が留学したり、大学中退、ひきこもり期間を経てまた専門学校に通うなど様々な要望に応えてくれた両親があってこそ立ち直れました。これがなければ、僕はまともな人生に戻ってくることは出来なかったかもしれません。
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