死刑制度の矛盾と命の価値:社会は誰を守っているのか?

考え・意見

僕が車を運転していると、ふらふらと走るバイクや自転車によく遭遇します。もし何かのひょうしにバランスを崩して倒れてしまったら避けようがないなとヒヤヒヤします。

もちろん、十分な車間距離は取るようにしていますが、例えば追い越しする瞬間などはリスクが高まります。

同僚でバイク通勤をしている人がいますが、雨の日に転んで事故したことが3回もあるんです。幸いなことに大怪我にはなっていませんし、いずれも単独事故だったようですが、巻き込まれでもしたらたまったものではありません。

いいかんげんにバイク通勤をやめたらと皆から言われていますが、本人は変えるつもりは無いようです。労災とかはどうなっているんでしょうね。会社から強制的に止めさせることは出来ないのでしょうか。

逆走してきたり、こどもを後ろに乗せて坂道を猛スピードでかけおりていく自転車なんかも見ます。バックで駐車しようとする車の近くを不用心に歩く人も少なくありません。

まったく危機感が無いというか、命を粗末にするような行動を僕は理解できません。

本音で言えば、できれば僕は車を売り払って一切運転しない生活をしたいくらいです。いくら気をつけても事故を起こす可能性はありますし、もらい事故や巻き込まれてしまうリスクは自分ではコントロールできません。

自分に加えて、家族の命を背負って運転することはとても恐ろしいことです。

またもしも、誰かを怪我させたり轢き殺してしまえば大変なことになります。精神的な負担に加えて、事故の対応や裁判、そして賠償責任も負います。

慰謝料は約2500万円、そして損害賠償も求められます。

損害賠償は、その人がもし生きていたら稼いでいたであろう金額を払うことになります。若い人や収入の多い社長や著名人を轢いてしまうと金額も跳ね上がります。

命に値段をつけるというのは倫理的には問題があるかもしれませんが、いくら謝っても取り返しのつかないことですから、最終的には金銭でもって補償するしかないのが現実です。

それに僕たちは普段から仕事をしてお金を得て生活しているわけですが、これも言ってみれば自分の寿命を切り売りしてお金を稼いでいることになります。

日本人の平均給与は約460万円なので、50年働いて2.3億円といったところが一人の命の相場になるのでしょうか。

多いのか少ないのか良くわかりませんね。

実際の賠償金では、生きていたらかかっていただろう生活費を考慮したり、収入を一括で受け取り運用した場合の利率を引くなどの細かい計算があるようです。

例えば被害者が40代男性、年収450万円で扶養家族が2人とすると、慰謝料と逸失利益を合わせて8000万円くらいになるようです。

遺族としてはこれだけお金が貰えればしばらく生活に困ることはない……とはならないのが現実です。

裁判所から賠償金の支払いが命令されても、こんな大金を払えない人は少なくありません。

自賠責保険は加入義務がありますから上限の3000万円は支払われるようですが、それ以上は加害者の支払い能力によっては泣き寝入りになる可能性もあります。

これは事故だけでなく、事件の被害者がよく直面する問題です。

事件の加害者は刑務所に入ってしまえば収入は0になってしまいますから、賠償金が支払われる可能性は非常に低いです。また、出所後も犯罪歴のある人を雇ってくれる会社は少なく、支払い能力は期待できません。

日本弁護士連合会の調査では、殺人事件の被害者側が受け取った賠償金は、裁判などで認められた額のうち13.3%にとどまっている

NHK – 賠償金が支払われない?犯罪被害後の“経済面”の厳しい現実

日本は他国と比べて治安が非常に良いのですが、その反面で被害者救済が少なく刑罰も軽すぎると思います。

日本には死刑制度がありますが、裁判で死刑判決を受けても実際に執行されるまでに非常に長い時間がかかります。

法的には、判決から6ヶ月以内に死刑が行われるように決められていますが、法務大臣が命令せず止まってしまっています。罰則の無い法律なので、命令を出さない法務大臣が多いんですね。

色々と意見の分かれる死刑制度について、考えてみようと思います。

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死刑制度の是非を考える

個人的には、死刑制度には賛成しており、執行ももっとスムーズに行われるべきだと思っています。

なぜなら、もし自分が被害者遺族となったら、死刑の執行を望むからです。

もしも自分の家族が被害を受けたらと考えると、僕は恐ろしくてとても耐えられません。例えば最悪のケースとして僕だけが取り残されるような状況になれば、自らの手で報復を考えるかもしれません。本当にそうするかはともかく、それくらいの怒りと絶望を感じているでしょう。

死刑は国家による報復の代行ともいえますが、これは正当な行為だと思います。

例えば、警察官が正当防衛によって銃撃し、結果として犯人が死亡しても罪に問われません。もっとわかりやすい例でいえば、軍隊は他国の兵士と戦うのが仕事ですし、場合によっては英雄視され勲章を貰うこともあるでしょう。

被害を受けたら賠償を行うのは現代社会では常識です。10万円の壺を割ってしまったら、弁償として10万円を支払うのは当たり前のことです。

凶悪な殺人犯に対しては、命で償わせるべきでしょう。

死刑は、被害者の命や遺族を尊重する制度だと思いますし、それを実施しないで止めてしまえば被害者の命を軽んじることになります。

被告人が、20歳以上の成人の場合は、3人以上の殺人であれば死刑は確実で、2人殺しで半分程度の死刑判決がこれまでにいくつも出ています。

関西国際大学 – 【心理学部】『何人殺したら、死刑になるのか ―死刑判決の基準―』

僕はどうしても、日本の制度は被害者を軽視しているようにしか思えません。健全な一般市民の命は犯罪者の半分しか価値が無いのでしょうか?

政治家や裁判官、弁護士、学者たちがもし被害当事者となったら、現状の制度で納得するのか聞いてみたいです。

もちろん、事故による死亡事件などもありますから、すべて極刑にせよとは言いません。ただ現状では、強盗殺人や強姦殺人など身勝手な凶悪犯罪者へのペナルティが低すぎると感じています。

犯罪者にも人権があると言われますが、僕はいまいちピンと来ません。

窃盗犯などの軽犯罪とかであれば、人権は守られるべきでしょう。しかし、殺人こそ最大の人権侵害ですから、その犯人の人権を守ることに意味はあるのでしょうか。

死刑執行は本人には直前まで告げられないそうで、いつ行われるか分からない恐怖に怯える日々を過ごすそうです。いっそのこと法律に則って6ヶ月以内に執行した方が無用に恐怖を与え続けることにならないので良いと思うのですが、もしかしたら死刑命令を出さない法務大臣はマゾヒストなのかもしれませんね。

大臣がマゾというのは冗談で、実際のところ、法務大臣が恐れているのは冤罪の可能性でしょう。

これに関しては、絶対に0にはできないのが現実だと思います。このため、相場よりも大きな補償をするしかないでしょう。例えば、一般的な補償額の3~5倍を国から支払うことで遺族と和解します。

そもそも死刑自体が少ないですし、さらに冤罪の可能性はもっと低いです。死刑判決を受けた後に反転無罪になった例はいくつかありますが、ほとんどがかなり昔の事件です。警察が無理やり自白させたりした滅茶苦茶な時代だったので、今とはまったく環境が異なります。

とはいえ、今の警察や国も完全に信じられるかというとそうではありません。僕自身はどちらかというと反権力かもしれませんね。

でも、確率論でいえば死刑冤罪の当事者になるのは雷に打たれるか宝くじに当たるようなもので、散歩していて交通事故に巻き込まれる可能性の方がはるかに高いですからそれほど恐れる必要は無いと思います。

裁判官や、実際に刑を行う刑務官の負担が問題に上がることもあります。

これに関しても、やはり相応の給与や手当を払うことしか解決方法はありません。

また、この問題は死刑制度だけが生むものではありません。例えば医者は業務の中で生命維持装置を外す責任を負っていたり、緊急時は命の選別となるトリアージの判断を迫られることがあります。自衛隊員であれば、戦うことが仕事ですから人を殺傷することへの精神的負担はつきまといます。

リスクや負担が大きい分だけ、給与も多く出ています。どうしてもやりたくなければ、転職すればよいですよね。

そもそも仕事って誰かがやれないことや、したくないことをすることでお金を貰うものですし。

色々と考えてみましたが、僕が思いつくようなことはもっと賢いであろう裁判官や官僚、政治家たちはすでに何度も検討しているはずです。

それでもこういう現実なのは、なぜでしょうか。

まず、日本は治安が良いので、被害者は限られた少数派になっており世論が形成されずらいのが大きな原因だと思います。アメリカなどは犯罪が多いですから、国民の関心が高くなり政治家も動かざるをえません。

それに万が一、冤罪なんてことになれば職を失うことにもなりかねませんから、極刑の判断を下すのはリスクも伴います。もし僕自身が裁判官だったら、死刑を廃止にして変わりに無期懲役にした方が気が楽かなと想像します。

理想と現実には大きなギャップがありますね。

もしかしたら、現実はもっと恐ろしいものかもしれません。

2022年にウクライナに侵攻したロシア軍では、敵(ウクライナ軍)の位置を把握するために囚人兵を突撃させて囮にするという作戦が繰り返されました。

また、一般兵士であっても給与がなかなか払われなかったり、滞ることも少なくないそうです。ロシア人の平均年収は2019年時点で約120万円だそうで、日本人の約4分の1です。戦時中とあって兵士の給料は上がっているそうですが、それでも命をかけて貰える給料がわずか年320万円程度だそうです。

長年混乱の続くシリアでは、9割の人が月収200ドル未満だそうです。つまり年収40万円たらずということになります。北朝鮮も似たような感じで、年収2000ドルくらいだそうです。

また、東南アジアやインドなどでは人身売買が横行しており、わずか2万円で売られていたりするそうです。中国では実子を30万円~150万円で売ったというニュースもありました。

経済力や国の状況の違いがあれば、命の価値も違ってくるのが現実かもしれません。

あまり考えたくはありませんが、収入の低い国では人権が尊重されない行為が横行しているように思います。

そもそも、人権意識があれば他国に攻め入ろうなんて考えませんからね。こんな国のリーダーは、兵士が死傷してもいくらでも換えが効くという認識にあるように見えます。

これは決して人ごとではなく、程度は違いますが日本でも似たような経験を僕はしたことがあります。

僕が以前はたらいていた会社では、基本給がかなり低く設定されており、見込み残業や各種手当という名目で水増しされてやっとまともな給与になるという契約でした。僕は新卒入社したのですが、2年目からは年俸制になるということで、ようするにボーナスカットされました。

特に役職のある方は成績不振が続くと、明らかに窓際に追い込まれるような人事がされていました。すると、色々な手当が減ってしまい残った基本給では生活できないようになります。会社からの解雇ではなく、自主退職をさせるような仕組みになっていました。

ほんとうの意味で命がかかっているわけではありませんが、やり方が汚いですよね。人を使い捨てにしていくやり方はまさに専制国家の独裁者と同じです。

一方で盛大な飲み会や忘年会を開いていましたし、社長が気に入った新入社員をキャバクラにつれていったりしていました。社員からしたら、そんな余裕があるなら1万円でも給料上げてくれよと思います。

結局のところは、上の人の都合の良いように社会が動いていおり、一般庶民は軽んじられているように感じます。もちろん、資本主義ですからある程度の貧富の差は仕方ないと思いますが、その大きさが必要以上に過大ではないでしょうか。

そして、こういったことの積み重ねが人の命を軽視する原因になっているのではないでしょうか。

この人は能力が低いから、稼げないから価値が低い。そんな価値観が議員や裁判官にも広がっていてもおかしくありません。庶民のためにリスクを負って政治改革をしたり厳格な法律運用はしたくないという本音があるのではないでしょうか。

そして、こんな事を頭の中で考えるだけで行動しようとしない僕みたいな庶民が大多数なので、社会は一向に変わらないんでしょうね。

麻生太郎元首相は、「国民が政治に無関心なことは悪いことではない」と発言して物議を醸しました。国民の政治意識が低いのは、問題が少なく優先度が低いほど平和だからということだそうです。

これは本当にそうでしょうか?

僕はどちらかというと、国民が無気力になっているだけに思います。若者が投票に行っても、母数で勝る高齢者に勝てないという意見をネット上でよく見ます。

日本の国民負担率は45%もあり、働いた半分を税金で取られていますからね。

僕は朝7時ごろに起きて支度し、仕事に行って帰ってくるのは8時です。そこから夕食をとってお風呂などを済ませると自由になるのは9時ごろでしょうか。睡眠時間は8時間は欲しいですから、自由時間は1日2時間といったところです。

政治のことを考える余裕が無い、というのが本当のところではないでしょうか。

死刑制度の是非をじっくりと考えようと思っていましたが、いつの間にか政府批判になっていました。世論が死刑のことよりも、目の前の生活改善を求める声が大きくなってしまうのは仕方ないのかもしれません。

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